生きることに疲れたので本棚を捨てます|文系コンプレックスの解消

こんにちは。

いや~、人生に疲れますね。(笑)

よく人生に疲れている真面目人間

前の記事でも書きましたが、私は子どもの頃から真面目で自分が負うべき範囲以上に責任を感じるようなタイプです。

一応一般的な人生を切り拓く方法に従って、やりたいことを重視しそれを活かすために生活の中の物事をカスタマイズしているつもりではあります。

でも収入が減る・なくなることへの恐怖や、真面目になるように追い立てられた幼少期の環境、テレビに映った資格ブームの影響など、自分じゃないものの先入観をすごい受けているような気がするのです。

アロマテラピーは好きだと思うのだけれども、多分「資格を持っていると安心」とか「手に職」みたいな恐怖心を払拭するものとして、好きだと誤認してしまっている感じがするんですよね。

「私が本当に好きなものって、何なんだろうね」と夫婦で話をしてみますが、まだヒントもつかめていません。

そんな私は最近、無性に本棚を捨てたくて捨てたくてしょうがないのです。

今持っているものは無印良品の組み立て式のパルプボードです。

パルプボードの画像

以前、家からJRで一駅のところで買って約10kgの重さのものをタクシーに乗らず電車で持って帰りました。「米を買ったと思えば!」なんて思って。(^_^;)

米と違って板が長くて持ちにくかったので、とても後悔しました。(笑)

それでこの本棚、別に嫌いになったわけでもないんです。今でも無印良品は好きなんですよね。

けれども【本棚】をとにかく持ちたくないのです。

ミニマリストっぽい金属のフレームのみの棚や、板の幅が狭いオシャレなものに変えたいかと言われても違う。

もう「本棚」自体が嫌だっていう思いが頭から離れなくて。

こんなにずっと嫌だって思い続けているのなら、どこかの何かのメッセージなのかなぁ~なんて思って捨てる(売る)方針で進めています。

ついでに本も捨てたいです。(笑)

でもまた昨日本を買ったんですよ。そんな馬鹿な自分にも慣れてきました。(^_^;)

本は0にしなくても、常に一軍を更新して少数精鋭の物たちを所有するのでもいいかなと思っています。

私は2015年に一人暮らしをしていた時、家に居たくなくてスパでそのまま泊まってしまうことなどがありました。

実家にいた頃は親がめちゃくちゃ厳しくて家にいるのは苦しかったので学校や図書館、空いているカフェなどに長くいるようにしていました。

一人暮らしをするにあたり、家具も壁紙の色なども好みに合わせて選び、ご近所トラブルもなく全然問題のない部屋に住んでいました。

にもかかわらず家にいるのが嫌になってしまうことが度々ありました。

なぜなら資格の本などがいっぱい置いてあったからです。

私にとって家とは努力をする場所だったのです。

それがホテルやスパに行くと、せいぜい雑誌がちょこっと置いてある程度じゃないですか。

「あぁ、今日はもう何もしなくていいんだ~!」と解放される気持ちが嬉しかったのだと思います。

そうなんです、私の心は努力をやめたがっていたのです。

そして断捨離に取り組む中でとある逆説に気づいてしまいました。

努力をしていない人がうらやましくなる逆説

こんなたとえ話があります。

Aさんが「ハワイに行ってきたんだ~♪」とBさんに話したとき「えぇーハワイ?私ハワイ嫌いなんだよね。」と言われて「ズーン。」と落ち込んでしまう。

せっかく気分が上がっていたのに外野にワーワー言われて気持ちが下がる。

せどりやブログを始めたら「えぇー怪しくない?」と言われて気持ちが下がる。

ハワイに行けたということは、それなりのお金や時間があったから行けたわけで、ハワイに行けもしないBさんにとやかく言われて落ち込んでたらもったいないという話です。

せどりやブログ、その他のビジネスもそうで、外野にどういう言われようとそれを掴めた自分の運や勇気は素晴らしいものだから外野に何を言われても落ち込む必要はないのです。

私は副業を始めました。

ツイッターで士気を高めている発信者さんたちは度々「世の中のほとんどの人が副業をやらなきゃと思いつつも、実際は何もできていないという状況がある中、スタートさせた皆さんはえらいです!素敵です!頑張りましょう!」といったツイートをします。

私は副業を始めたので、ハワイに行ったAさん側だとしましょう。

世の中の大半の人は生命時間をお金に換える労働をしたら、残りの時間はテレビやゲームや漫画などの娯楽に費やします。

副業の中でも特にビジネスを勧める側の主張としては、「会社に依存しているのは危険だから」とか「時間をお金に換える仕事だと、自分の自由に使える時間が少ないため自分の人生を生きていないことになり、幸せから遠のくから」といったものがあります。

私は不幸に生きるよりは幸せに・豊かに生きてみたら楽しいんじゃないかと思って、「じゃあ幸せになるためにはどうしたらいいんだろう?」と考えていました。

時間をお金に換える以外の仕事をやることで経済的に豊かになり、自分の人生を生きられているという充足感が得られたり、趣味や社会貢献などの自分が好きなものに時間を費やせて幸福感を得られると言っている人を一定数見かけました。

なので私は「あぁそうか、幸せになりたいのならどうやらビジネスをやることが一つの手段になり得るらしいぞ。」という結論に至りました。

だいたいの人は本業がありながらビジネスをスタートします。なので平日の寝る前や早朝、休日を使ってやります。

本業も頑張りながら副業も頑張るというのは、体力的にも精神的にも辛いときがあったりするのでツイッターでは「休日でも早起きして頑張ってる皆さんはえらいですよ!」的な発言があるのです。

まあ辛いときもあるんですけど、思い通りに人生を描いて歩んでいける切符を手にしている状態なんだからそれは(ハワイに行った)Aさん側だよね、だから◎ですよっていう捉え方をします。

私は「アリとキリギリス」のキリギリスになるよりはアリになる準備をしておいたほうが、私の心が喜ぶから私の人生にとって良いかなと思って副業を始めました。

だから思い通りに人生を描いているはずだから、◎なはずなんです。

でも心のどこかで、言葉は悪いかもしれないけど語弊を恐れずに言えば、副業もせず勉強もせず、自己啓発もせず読書もせず、ただ会社に行って言われたことを言われたようにやり、勤務時間から解放されたら好きなものを好きなように飲み食いし、生産性のないテレビを何となく見て、ただただ普通に生きる……そういう生活をうらやましいと思ってしまうのです。

端的に言えば、努力してない人をいいなと思うのです。

私の両親は学歴コンプレックスが強かったため、私を優秀な人間に仕立てることで世間からの評価を良くし、優越感に浸りたいというタイプでした。

幼稚園の頃から小学生用のドリルをやらされ、生きるためには空気を吸わなければいけないように、勉強も当たり前のこととして習慣付けられました。

(幼稚園のときぐらいパッパラパーでもいいじゃない、いっぱい遊んでおきましょうって私は思うんですけどね。)

多少の緩急はありましたが、人生のほぼ全てにおいて「努力家だね」「真面目だね」と他人に言われて生きてきました。

でももう努力するのに疲れたみたいです。(^_^;)

「ただ生きたい」と最近よく思います。

副業とか読書とかを頑張らずに、ただ最低限の仕事だけをやり、ただ食事をし、ただYouTubeを見て、ただ寝たいんです。

時がくればまたやりたいことが出てくるかもしれないし、今この瞬間の「ただ生きたい」っていう自分の心の声を大事にしてあげるのもアリかなぁなんて思っています。

だから本棚を捨てようと決めました。

私が化学や薬学を頑張ろうとしている理由

私が自然療法に興味を持っているのは読者さんは知っているかと思います。

昨日、リサイクルショップに物を運んでいるときにふと気づいたことがありました。

「文系」を見下されたことが悲しかったということ。

私の両親が通っていた高校では「文系は遊び、理系は進学」といった暗黙の了解があったようでした。

私の通った高校の先生もそういう親が一定数いると知っていて「うちは進学校だから、文系なら文系の学部に受かりやすい対策をするというだけで文系=遊びじゃないですからね。」と話していた。

最初に理系を選択し、理系のクラスにいながら最終的に文系の学部を受験することを「文転」と言ったりします。

実際に文転をした先輩に聞いてみると、受験に使わない科目の授業を受けている時間がもったいないから、自分が文系に進みたいのなら初めから文系を選択したほうがいいとのことでした。

完璧に人生設計はできていないものの、高校1年生の時点で語学が好きかなと思ったので文系に進むことに。

両親は「文転だってできるんだから!」とこの世の終わりみたいな顔で理系に進むように説得してきましたが、先輩の言葉のほうが説得力があったので結局文系に進みました。

私が受験したときは「文系は社会2科目理科1科目、理系は社会1科目理科2科目」になるだけで、文系だって数ⅡBはやるし生物はやるし、全然遊びではありませんでした。

過去の記事に書いたように、10円ハゲをつくりながら必死に頑張っている人もいました。

実際に大学に入ってみて、私の親のように「文系=遊び」の高校を卒業した人も世の中には多かったのか、文系というだけで「暇、遊び、怠けている、頭が悪い」といったレッテルを貼られることがありました。

文系でも教員免許を取りたいなどで単位を多く取る人はいるし、理系でも卒業に必要な単位が低く設定されている学科でゆるりと過ごしている人もいました。

文系でも地頭の良い人もいれば、理系でも赤点ばかりの人だっているし、本当に人それぞれです。

それでも文系というだけで全否定される世間の評価を超えることはできませんでした。(と当時の私は感じました。)

「そんなに文系が楽でバカだと言うなら、あなたは東大の文科一類に合格できるんですか?あそこも一応【文系】ですけど?」と心の中でたずねていました。

実際に文系の学部を卒業した人が「大学時代は楽しちゃった!結構ヒマだった!」という理由で私の生活を決めつけてくるならまだしも、大学に行ったことさえない人に否定されるのは本当に意味不明でした。

唯一救いだったのは理系に進んだ私の同級生や、母の旧友の娘さんが「理系は定員が多いけど文系は定員が少ないから狭き門なんだよ。逆に文系のほうがすごいよ。本当によく頑張ったね。」と言ってくれたこと。

本当に私が怠けていたせいで成績が悪かったのなら、それは自業自得だから納得できます。

だけど「文系」という言葉を口にした瞬間、どんなに努力をしていても「あぁ、楽なんですね、バカなんですね。」と全てを決めつけられるのは悲しくて悔しくて仕方ありませんでした。

「どうして、もっと本当のことを見ようとしてくれないの?」と私は思っていました。

性格についての話もあります。「あの人は美人だから性格が悪いに違いない、あの人はブスだから性格が良いに決まっている。」とろくに話もせずに決めつけてしまう人を見たことがあります。

美人だって性格の良い人もいるでしょうし、ブスでも性格の悪い人はいるでしょう。そんなの話してみて関わってみなければわかりません。

実際に関わっていく中で人間性を知っていけばいいのに、最初から決めつけて覆さないのは誰の得にもならないのではないでしょうか。

前置きが長くなってしまいましたが、私自身が「こんなにも評価されないんだ!」という理不尽を経験したことで、「他人が評価し得るもので努力をしなければ無駄になり、悲しい思いをする」という考えにとらわれるようになったのだろうと思いました。

今年の春頃までは私の浪費癖を治すために、かかる期間とお金が明確になっている資格の勉強をし、ある意味自分を拘束するために活用していました。

コロナでの経済不安から、とてもシビアに家計簿をつけて反省するようになると、安いと思っていた資格のためのお金も惜しいと思うようになり、現在は資格の勉強は保留にしています。

大人になってからアロマを入り口にして、化学や薬学など学生時代に注力しなかったことを熱心に学びたいと思うようになりましたが、ある意味それは私の文系コンプレックス解消の道具なのではないかということに気づいたんです。

それで心が「人生の時間は有限だよ。どこかの誰かによって作られたコンプレックスを解消することにこだわるより、もっと自分の大好きなことに時間を割こうよ。」と教えてくれたんじゃないかなと思いました。

不思議なことに「あぁそっか!私、そういえばこんなことを嫌だって思ってたよね!」とリサイクルショップに向かう道で気づいてからは、無性に本棚を捨てたい気持ちは小さくなりました。

どうせ捨てるんでしょうけど、無性に急いで手放したい気持ちは小さくなったので、落ち着いて買取依頼の電話をして手放そうと思います。(^_^;)

断捨離のモチベーションが湧かなくたっていい

断捨離でも勉強でも何でも「なんだかやったほうが良さそう・やりたいような気がする、でもちょっと面倒くさい、モチベーションが湧かない」っていうことがありませんか?

私もありました。

そういうとき「私は○○を○○するために、××をしたいから△△をするぞー!!」っていうモチベーションが湧かないから行動できないんだって思ってました。

つまり夢や目標などのゴールを完璧に描けないとモチベーションが湧かないのだから、夢や目標をまず決めなければいけないと。

「断捨離ね……。良いらしいけど、絶対これを捨てたいとか、絶対こういう家に変化させたいとか、絶対この夢を叶えたいけどこれが足かせになっているとか、そういうのが特にないんだよね。」なんて思ったことがあるのではないでしょうか。

だけどちょっとでも「気になる」「何だかわからないけどやったほうがいい気がする」と思ったとき、先に手を動かしてしまうのがおすすめです。

なぜならやっている途中でしか気づけないことがあるからです。

私は今年だけで10回以上はリサイクルショップに行っているのですが「よーし、私には文系コンプレックスがあるから、それを解消するために断捨離を頑張るぞー!」なんて最初からわかってはいませんでした。

「なんか……やったほうがいいような気がする……」ぐらいのぼんやりしたレベルでしたが、10回以上リサイクルショップに行く中のとある1回で「あ、そういえば」と何の脈絡もなく急に思い出したんです。

心の問題に興味があったので3年ほど前からカウンセリングに行き、そこで言われた「自分年表」(何歳のときにどういうことがあって、何を思ってどんな感情で、本当はどうしてほしかったかなどを書く)を真面目にやってみましたが、そのときは今回のような気持ちを思い出せませんでした。

また心理カウンセラーの初級講座を受けてみても、自分がこんなコンプレックスにとらわれていたなんて、全然気づきませんでした。

人は普段「栄養バランスの整ったごはんを作らなきゃ」とか「遅刻しないようにしよう」とか、やるべきことを顕在意識でたくさん考えながら生活しています。

だから「本当の自分の気持ち」「心の声」といったものは頑丈に封じ込められています。

そこで「何か変わるかもしれないなぁ~」ぐらいで掃除や断捨離を続けていると、ふとした瞬間に無意識がポッと出てくるのです。

というわけで今週もとりあえず手を動かしてみようと思ったのでした。

みなさんは、最近気づいたコンプレックスはありますか?

最後まで読んでくださり、ありがとうございました。

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