好きってどういう意味?|意外とテキトーで大丈夫

こんにちは。

家事をやりたいがためにパートにしているのに、ある時は週5・6だったりして「なんだこれは!」となっていた今月でした。家が荒れていて残念でした。(^_^;)

どうやらシフトを作ってくれた人が時間の計算を間違えていたらしく、月末の出勤分を休みに変更できそうなのでラッキー♪と思っていたところです。

好きと愛の違い

今日のテーマは「好き」について。

数年前に「たま先生」という人のYouTubeをよく見ていたことがあったのですが、好きと愛の違いは「好きは自分の幸せを願うこと」「愛は相手の幸せを願うこと」と解説していてとても納得できました。

「好き」というのは自分の幸せのために手をつなぎたいとか一緒にデートに行ってほしいとか、キスしたいとか…そんな感じです。

「愛している」場合は相手の幸せのために栄養のあるご飯を作ってあげたいとか、そういうことです。

好きの定義は人それぞれでいい

これを思い出したのは偶然「猫」に関するSNSを見たからでした。

友人が「猫が好き」ということで猫を飼ったらしいが、一日のほとんどをゲージに入れて過ごさせ、遊ぶのはほんのちょっとの時間ちゃちゃっと遊ぶだけ。

そうしたらまたゲージに入れる。それって本当に「猫が好き」なの?といった内容でした。

私も似たようなことがありました。

昔付き合っていた人が「猫が好きだから猫を飼った。猫、可愛いよ。」と言うので家に行ってみたら、ほとんどテレビを見ているか携帯をいじっているかで「猫が遊びたがってるんじゃない?」と言っても数十秒猫じゃらしを左右に振って終了。

大の猫好きの私は「猫、好きなんだよね?猫、可愛いと思ってるんだよね?」と不思議に思い、代わりにめいっぱい遊んであげました。

役者が役に入りこむように、おもちゃを野生動物に見立てて動かすのです。

小さい動きや大きい動き、左右の動きと上下の動き、ゆっくりな動きと瞬発的な動き、遠ざかる動きや近づく動きを組み合わせて、まるで本物の動物が動いているように再現します。

「シャーッ!」と蛇の威嚇っぽい声を入れてみたりもします。

猫って元々狩りをする生き物だから単調な小さい動きで終わらせるよりは、予測不可能な本来の動物的な動きをしてあげたほうが楽しめるかなぁと思って。

私にとっての「猫が好き」とはこういうことなのです。最初の解説で言うところの「猫が好き、かつ猫を愛している」なのではないかと思います。

次に「子ども」の例です。

年齢的な猶予があるので最終的な決断は改めてしますが、今のところ私たち夫婦は子どもをもうけず2人暮らしをしています。

できたらできたで可愛いだろうと思いますし、子どもは大嫌いなわけじゃありません。

「優しい」と言われることも少なくなく職業を「保母さん」に間違えられたり、母には「ママ、natsuちゃんの子どもとして生まれたかった。」と言われ、子育てに向いてそうと言われることもあります。

しかし私は完璧主義なところが抜けきっておらず、自分に課すハードルが高すぎて精神を病むタイプなので、「絶対に子どもがほしい!!!」と200%確信するまでは保留にしようかなと思っているところです。

私はもし子どもができたら、自己肯定感の高い子に育ててあげたいと思っています。

私にとっての子育てとは「その子の個性を尊重し、存在を認め、自己肯定感を育み、個性をいかしながら社会で活躍できるようにしてあげること。本人自身も生きやすく楽しい人生を送り、そして他人のためにもなれる人にしてあげること。」だと考えています。

それを旦那に話すと「親も0からのスタートだから、子どもと一緒に成長していけばいいと思うんだよね。暴力とか人の道から外れることのないようにだけ教えれば、それでいいんじゃないかな。」と返ってきました。

ちなみに旦那のお父さんは旦那が学生の頃に亡くなりましたが、とても子ども好きな人だったそうです。

夜勤から帰ってきて、お母さんが「仕事で疲れているんだし、少しは寝たら?」と言っても「子どもの笑顔を見ることが自分にとって一番の活力になるから。」と早朝から虫捕りに行くような人だったとか。

対して私の父親は深夜に一人でドライブに行ったり夜食にラーメンを食べ、休日は趣味のゴルフ(接待等ではなく完全な趣味)やスポーツ、車磨き、ネットカフェ、昼寝をしたりしていました。

私も一人でいる時間が自分の充電になるタイプなので、一人行動が楽しいのは多少理解できます。

だけどあまりにも子どもと関わる時間が少ないものだから母親が「子ども…好き?可愛い?」と事あるごとに聞いていました。

「好きだよ。可愛いよ。」と言うものの、そういう風には見えない人でした。

そして母は「子どもが好きだから保母さんになりたい」と学生時代に言っていたほどで、子どもが大好きで望んで産んだにも関わらず、叩く・蹴る・怒鳴るばかりの自分に嫌気がさしていました。

私たち姉弟から見て、母はあまり子ども好きには見えなかったので「子どものどういうところが好きだと思うの?」と聞いたことがありました。

まとめると「手足がムチムチしている」とか、そういう見た目的な要素から「子どもは可愛い」と言っているようでした。

ちなみに私は猫好きですが、母は犬好き。猫って人間が遊びたくても構ってくれなかったり、逆に仕事が忙しかったり疲れている時に限って寄ってきたりします。

私は猫が好きなので「はいはい、そういうときもあるよね。」と思えるのですが、犬好きな母は嫌だそうです。

おそらく「散歩行くよ」「エサの時間だよ」「ゲージに入る時間だよ」「遊ぶ時間だよ」と人間主導で時間を管理できるのが心地よいのだと思います。

多分「保母さんになりたい」と言っていた理由も「お歌の時間だよ」「お絵かきの時間だよ」「給食の時間だよ」「お昼寝の時間だよ」と自分主導で小さい者たちを思い通りに管理することに良いイメージがあったからだと思います。

保母さんにはならなかったので、実際に子どもと過ごしたのは子育てだけでしたが、子どもって「片付けの時間だよ」「ご飯の時間だよ」「お風呂の時間だよ」「寝る時間だよ」と言っても「はいそうですか」なんてロボットのようには動きません。

自分がもっといい母親だったら、子どもがもっといい子に生まれていたら「片付けの時間だよ→はい」「ご飯の時間だよ→はい」「お風呂の時間だよ→はい」「寝る時間だよ→はい」って完璧に上手くいっていたはずなのに、なんで子どもたちは言うことを聞いてくれないんだろう、イライラしてしまうんだろう、家庭がうまく回らないんだろうって悩んでいたと思うのですが、そこは悩むポイントじゃないんですよね。

大人だって「○時にはお風呂に入ろう」と思っていたのに、ゲームをやっていたらあっという間に時間が過ぎていたとか、会社で資格を取れと言われたのに面倒くさくて勉強をサボっていたら落ちたとか、ついお酒を飲みすぎて仕事中に頭がボーっとしてしまうとかあるじゃないですか。

人間ならば誰しも「やるべきだったのにできなかった」ってあると思うんですよね。大人だってできないものを子どもにやらせようとしても、できなくて当然でしょう。

私が親になったらアイロンや刃物など事故につながるものだけは気をつけて、あとは親も子どもものびのび過ごしたいな~と思いますが、どうせその時になったらまた完璧主義志向で心を病むんだろうな~とも思っています。

ちょっと脱線してしまいましたが、結論として「好き」「愛している」がどういう意味なのかは人によって違うんだと思ったんです。

大学生のときに付き合った男性がいました。彼もまた大学生であり20代前半なわけですから、性欲の強い年頃だったんですよね。

呼び出されて、交通費と時間をかけて家に行けば性的な要求ばかり。

私はそれに疲れてしまい「私のこと、無料の便利屋かデリヘルだとでも思ってるんでしょう?風俗に行けばお金がかかるけど、彼女を呼べばタダで性欲が処理できるから都合がいい。私のことを好きだとも愛しているとも思ってないくせに、大事にしてくれないくせに、そうやって自分の性欲がわいた時だけ無料のデリヘルとして利用するのはやめてくれる?」と喧嘩になりました。

彼の主張としては「女だったら誰でもいいわけではなくて、好きな人だからこそ、愛しているからこそ交わりたいと思う。嫌いな人だったら一緒にいたくもないし触れたくもない。今こう言っているのはお前が好きだからなんだけど、それじゃ駄目なの?」ということで話は平行線に。

私は「好きならば大事にしてほしい(=性欲処理機として使ってほしくない)」、彼は「好きだからこそ性的に交わりたい」という思いを持っていました。

(私は男性と付き合うのは向いていないだろうと思っていたので、今の旦那にも忠告はしておいたのですが結婚まで至りました。)

やっぱり、「好き」をどういう意味で言っているのかは人それぞれだなということですね。

他人に寄せられる意見を見ても心苦しい

なんでこんなテーマについて考えるようになったかというと、仕事でご意見(いわゆる苦情)を連続して見る機会があったからです。

私宛のご意見もいただきましたが「これはお客さんがたまたまイライラしていた日だっただけで、natsuさんに非はないのでは?」と上の人が判断したようで、責められることはありませんでしたが私も人間なので悲しくはなります。

そして複数の店舗を展開しているお店なので、同じ失敗を繰り返さないために他店のご意見もメールで共有されることがあります。

それを見るたびに心苦しくて。

「やってるほうも人間なんだし、間違えるときだってあるでしょう。そんなに嫌なら他のお店に行くとか、嫌な人に当たらないように好みの人を指名するとかすればいいのに。そこまで言わなくたっていいじゃん。」と他店に来たご意見に心を削がれてしまうのです。

ちょうどコロナの影響で固定給から歩合制に変わる話が出て退職者も続出(みんな固定給のところへ転職していきました)、まだ退職していないスタッフの中でも転職の話で持ち切りな時期だったので、「私はなんでセラピストをやっているんだろう。何が好きって思ったんだっけ。好きってどういうこと?」と「好き」について考えたのでした。

自分に課すハードルが高すぎて鬱になる完璧主義者

例ばかり多くなってしまいましたが最後にもうちょっと。

私が塾講師のアルバイトをしていた時のことです。高校受験だけが人生を決めるわけではないけれども、重要な要素のひとつにはなり得るものだと私は思っていました。

人によっては高校受験の結果で人生が変わることもあるかもしれません。

子どもたちに勉強を教えるということは、間接的に言えば私がその子たちの人生を変え得る可能性があるということです。

「私が接した1時間が、私が放った一言が、この子の人生を変えてしまうかもしれない。私の教え方が至らなかったせいでこの子が受験に落ちてしまうかもしれない。私は子どもの人生に影響を与える人でいたくない。」

そうして心苦しくなって塾講師を辞めてしまったのです。

塾に通わせている子どもの親だって、ペーペーの大学生がバイトで教えているのを了承してお金を払っているわけだし、そこまで気負う必要はなかったのですが、勝手に荷が重く感じてしまいました。

大学生が塾講師のバイトをする理由なんて「家が近かったから」とか「時給が高かったから」とか…そんなもんでいいはずなんです。本格的に教えてほしい人は正社員で固めている進学塾に行かせるでしょうしね。

そして私、人とご飯を食べるのがとっても苦手なんですよ。

誰かがミスをしてしまったときに、笑い話に変えて本人が気を遣わないようにしつつ場を和ませたりできる、発言の上手な人っているじゃないですか。

私はせいぜい「大丈夫ですよ。」とか「気になさらないでください。」と言う程度で、いかにも普通の対応しかできません。

同僚が仕事に悩んでいるときも「そういう時だってありますよ。」とか「徐々に慣れていくしかないんじゃないでしょうか。」とか、いかにも普通のことしか言えません。

もっと特効薬のように、相手の心をグンと軽くしてあげられる秀逸な返しをしてあげられたらいいなと思うのですが、なかなかとっさの場面で思い浮かびません。

友達同士のご飯を食べながらの雑談って、プロに頼んで数万円払ってカウンセリングしてもらっているわけでもないし、みんなが言いたいように言って食べたいように食べる場のはずなんですよね。

だけど私は「今言った一言が、どれだけ相手を楽にしてあげられただろうか、楽しませてあげられただろうか、傷つきはしなかっただろうか…」と気になりすぎてしまい精神的にぐったりと疲れてしまうので、今ではほとんど友達とご飯を食べなくなりました。

食器などを渡すときも「あ、皿を先に渡してから箸を渡してあげればお皿に乗せられたよね。受け取りにくかったかな。」とか「あまり水を飲まないタイプの人だったから、コップの7分目まで入れずに5分目くらいにしてあげればよかったな。」とか、ずーっとグルグルグルグル頭の中で反省会をしていて、すごく疲れるんです。

誰もそこまでして苦しんでほしいとは思っていないだろうなと思うのですが、無意識に自分でハードルを上げてしまうところがあるんですよね。

猫をゲージに入れっぱなしでも「猫が好き」という人もいれば、叩いたり蹴ったりしながらも「子どもが好き」と言う人もいる。

私は子どもの頃、そういう人って他人に良く見られるために嘘をついているのかな?と思っていたのですが、大人になった今は嘘をついているのではなく、それが本人にとっての「好き」の形なのだろうと考えるようになりました。

そして「生きるって意外とテキトーでいいんだな。」と思いました。

私がセラピストとして働く理由だって、大げさなものを考えなくても「アロマのいい香りで癒される」とか「家から近かった」とか、そんなものでもいいのかもしれません。

人それぞれに「好き」の定義があり、そうして色んな「好き」を持った人が世の中を生きている。世界はそうやってつくられている。

色んな人が色んな考えで生きている。それでいい。

他の家の猫が四六時中ゲージに入れられていたら「ちょっと不憫かも?」なんて勝手に思っちゃうけど、飼い主は嘘をついているわけではなく、本人にとってそれが「好き」の形であり、人はそうやって生きていていいみたいです。

インナーチャイルドの願いをかなえる日々

私は「優しいね」と言われることが多いですが、それはなぜかというと「辛い人の気持ちがわかるから」です。

子どもの頃に「ママとボールで遊びたい!」と母のところにボールを持って行くと、バレーボールのスパイクのように一発だけ全力で私にボールをぶつけました。

「そうじゃなくて、普通にボールで遊ぼうよ~!」と再度誘っても「は!?今やった!やったじゃん!もう終わり!」とブチ切れてタバコを吸いに行く始末…。

全く子ども好きには見えませんでしたが、私は「もっとCMに出てくる親子のキャッチボールみたいにちゃんとやってほしかったのに。」と思ったのだと思います。

だから「猫はもっとこうやって遊んでほしいんじゃないかな?」と考えたりするのです。

「インナーチャイルド」という言葉が広く知られるようになってきた感じがしますが、私が完璧主義なのは私の中にいる小さい私に「こうがよかった?こうしてほしい?これでどう?」と、はなまるをもらうことを目指しているからかもしれません。

真面目すぎて鬱っぽくなりやすいのは変わっていませんが、世間や親の声の呪縛にとらわれるのではなく、幼き日の自分の願いをかなえるために時間や労力を使っていること、そしてそれに気づけた分前進しているんじゃないかなと思いました。

みなさんは「自分のこんな性格に悩んでいる」というところはありますか?

真面目すぎる人は「意外と、テキトーに生きても大丈夫みたいよ。」と自分に言い聞かせてみてください。(^_^;)

最後まで読んでくださり、ありがとうございました。

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