専業主婦が目指す正解と価値

こんにちは。

最近、すごい転機が訪れようとしています。

今は本業を2個掛け持ちしているのですが、1個を辞めたとしたら週1のシフトでもいける…そうしたらほぼ専業主婦になる。

旦那は以前から専業主婦推奨だったので、いい機会だし「専業主婦」ということについて考えてみました。

なぜ働きたかったのか?

うちの母は、早くに父親を病気で亡くし母子家庭育ちでした。昔は結婚に際して「家柄」という概念を強く持った時代だったでしょうから、「こんなに不利な家柄なのに拾っていただいた」みたいな意識が強かったんですかね。

多分母の母(私の祖母)も「母子家庭なのに結婚していただけるなんてありがたいんだから、失礼のないようにね!」みたいな発言をしていたんじゃないかなぁなんて思います。

母の自己肯定感の低さがいつ始まったのかはわかりませんが、「こんなに価値のない自分が捨てられないために」と毎日を過ごしている印象でした。

「人と人が大事にし合っている」「互いを磨き合っている」といった感じではなく、ひたすら父に対して迎合するばかり。

父方の家系が九州の人だから(?)かもしれませんが「生活費を稼いできてくださるお父様が一番偉いのだから」とテレビのチャンネル権はもちろん父親。

食事のメニューも子どもが「アレ食べたい」と言うと「この前も食べたでしょ!」と怒られるのに、父が言うと何でも受け入れられる。

子どもはゲームを1時間しかしちゃいけいないし早寝しないといけないけれど、父親はインターネットを何時間でもやっていいし、何時まででも起きてていい。

大人になった今なら「子どもが真っ当な社会人生活を送れるように生活を修正してあげる義務が親にはある」というのも理解できますが、当時「パパはパパだからいいのよ~」みたいな言い方しかされなかったので、「どうして同じ人間なのに不平等なんだろう」という不信感がわいてしまいました。

食事のメニューから、どんな家具を置くか、どんな行き先に出かけるか、休日をどう過ごすか、妻がどういう職に就くか…何でもかんでも父の独壇場でした。

学校の卒業文集で将来の夢に「お嫁さん」とか「お母さん」って書く子がクラスに1人はいると思いますが、当時の私からしたら「あんな奴隷のような不幸な人生は送りたくない!」と全く理解ができないのでした。

「大切にし合っている夫婦」ではなく、ひれ伏して、遠慮して、自分を殺して、従って、管理されて……いつも泣いている母をかわいそうだと思っていました。

同時に「私も男に生まれて幸せになりたかった。女に生まれてしまった時点で、もう一生の不幸が約束されたんだ。」という絶望感がありました。

そこで中学生のときに「家庭内で平等に発言権を持てる女性になりたい」「男性並みに稼げるようになろう」という目標を持ちました。

私の母は父に対して「死ねばいいのに」「離婚したい」と言っており、子どもの私も「経済的に困ってもいいから、母と弟と3人で笑顔で暮らしたい」と思ったので離婚してほしいとお願いしていたのですが、金銭面と世間体の不安から嫌々結婚生活を続けていました。

母子家庭でのお金の事情を見てきているから、「どんなことがあっても子どもたちにお金の苦労だけはさせちゃいけない」という思いがあったんでしょうね。

社会人になって、母子家庭出身の同期が寝る間も惜しんでバイトをしていた話を聞くと、十分な睡眠時間を与えられて勉強に専念できた環境は恵まれていたなぁと思いますが、当時は精神の壊れた母を見ているのが嫌でした。

今思うと、私の母も子どもを「管理して従わせる」タイプでしたが、独壇場の父の言動を不満に思いつつも「大丈夫大丈夫、これが愛情ってものよ!」と母が心の中で自分に言い聞かせたものが子どもに連鎖したのではないかと思います。

というわけで私は「なによ!そっちがその気なら離婚してあげたっていいんだからね!」と強気に出られるような女性になるべく、正社員(経済的自立)への憧れ(と執着)を持ったのでした。

専業主婦になる不安

新卒の頃は独り身なので、無理して正社員を頑張っていましたよ。そうしないと生きていけないからです。

社会人になって、自分も世の中のほとんどの人と同じように正社員で頑張るものだと当たり前に思っていました。

しかし通勤電車では「顔色が悪いけど大丈夫ですか?」と話しかけられ、めまいで気持ち悪くなって途中下車をするも改札を抜けてトイレまでたどりつくことができず、途中で倒れて医務室で休ませてもらったり……体力的に不可能でした。

最初は「甘えているだけだ」「健康管理ができていないからだ」「根性がないからだ」と一生懸命自分を奮い立たせようとしたし、野菜を無農薬のものに変えたり、マクロビなどのセミナーに出て勉強したり、平均的な人よりも努力していました。

だけど、たくさんたくさん努力して得られる結果が平均の人のちょっと下ぐらい。もう「自分はこういう人間、こういう体質なんだ」と諦めることにしました。

せっかく雇っていただいても体調不良で迷惑をかけるだけなので正社員はもちろん除外して、勤務日数が自由な個人事業主(業務委託)にしたりパートにしたりなどを試してきました。

そんな折、私に専業主婦になるチャンスがヒラヒラと舞い降りてきました。

前の職場を辞めたときは「お小遣い制なんて絶対に無理!自分で自由に使えるお金がほしい!」と、体が弱いくせにお金を得たい欲だけはたくさんありました。

そのため専業主婦を試みてみても、結局すぐに求人を探し始めてしまうのでした。

しかしここ最近断捨離が進み、心理学も勉強して実践し、トラウマや執着もある程度手放せるようになってきて「そこまでお金をたくさん得なくてもいいじゃん♪」と思えるようになりました。

だから今、人生で一番収入が少ないのに一番貯金のペースが早いんです。驚きですよね。(笑)

そんな今なら別に専業主婦になってしまっても、もどかしさや物欲に襲われることはないんじゃないかと思ったんです。

「じゃあ、よし、専業主婦に……なるか?」と考えたときにとっても不安になりました。

まだ起こってもいない未来の不安にとらわれている

私は一つの会社で長く働き続けることができなかったので、ただでさえ就職に不利な履歴書なんです。

もしまた将来的にパートをやりたいと思うようなことがあれば、そこで履歴書を提出したときに不利になることがすごく怖いなと思いました。

断捨離では「まだ起こってもいない未来の不安にとらわれて、今の生活が犠牲になるべきではない」という考え方をします。

今の私の考えは極端に言えば「手に入らなくなったらどうしよう」と日用品を買いだめし、余分なストック品が生活スペースを圧迫して過ごしにくくなっている人と同じ心理なんですよね。

そんな考えこそ一番断捨離すべきなのに…と思いつつも、ここ最近の一番の葛藤になっています。

いい母・いい主婦を目指すと絶対に失敗するカラクリ

そしてもう一つの課題は「専業主婦という自分の価値をどうやって測ろうか」ということです。

「ただの専業主婦でいる自分、大丈夫かな?」って思っちゃうんです。

私はもともとバカ真面目でした。

旦那は8時半から17時半まで気を緩めることなく、背筋を伸ばして目がしょぼしょぼしても肩が痛くても一生懸命仕事をしているわけだから、私が過ごす8時半から17時半もそれに見合う真摯なものでなければいけないと思い込んでいたんです。

だから掃除やおかずの作り置きなど、時間のかかる家事を丁寧にやっていきました。

ある日「毎日毎日よく働くねぇ~。真面目だねぇ~。俺は会社が休みの日に絶対にそんなことしないよ。」と旦那が言いました。

「あなたはフルタイムだからそれでいいんじゃない?でも私は兼業であっても主婦だから、これが仕事なのだからやって当たり前でしょう?」と返しました。

旦那は3人の姉と妹がいて、さらにバツ1なので何人かの女性の家庭内での振る舞いを知っています。

そして「普通の主婦はそんなことしないよ!」という言い方をしました。

(あくまで旦那の基準。世の中には私の2倍3倍すごい、スーパー主婦の人もわんさかいるでしょう。)

私は「仕事というのは、やるべきことを決められた時間内でこなすから『仕事』なんじゃない?私は主婦だから家が職場であるし、主婦としての仕事をこなして当たり前なんじゃないの?やるべきことをやってなかったら、そもそも『仕事』として成り立ってないじゃん。」と言いました。

どこかの誰かが言った言葉、「主婦は家庭の太陽だから」。実は旦那はそう考えていたようでした。

家なんて汚れていたっていい、掃除なんてしなくてもいい、俺が休みの日に掃除機をかけるぐらいならできる。家計のお金を使って趣味に行ったっていい、昼寝をしたっていい、エアコンもどんどん使ったらいいし、アマゾンプライムビデオもどんどん見たらいい…なんて言うんです。

この「株式会社ナリ心理学」さんの最初のほうにある「で僕はこう答えた。」と一緒ですよね。

(参考→「専業主婦になんの価値があるの?」)

大好きな人だから、大切な人だからこそ、多少無駄遣いしようが家事が完璧じゃなかろうが、たくさん笑っていてほしい、それが家族の元気の源になるから価値があるっていうことです。

いい母じゃなくていい、笑っていてほしかった

実はしばらく忘れていたけれど、私も母に対して同じことを思っていたんです。

母は私たちと一緒に夜ごはんを食べない日が多くありました。

父・私・弟がごはんを食べている間に母はお風呂を掃除してお湯を溜めます。

その後母は遅れてごはんを食べ始め、後半は3人が食べ終わって「ごちそうさま」と席を立ち、最後は一人で黙々と食べるのです。

こうすると母が食べ終わる頃にはお風呂のお湯が溜まりきるので、キッチンでお皿洗いのためにお湯を出してもバッティングしません。そして3人のうち1人がすみやかにお風呂に入ることができます。

母は食べ終わった人から食器を下げるのではなく、4人全員が食べ終わってから同じ形の皿ごとに重ねたいタイプでした。

私と弟はそれほど食べるのが早い子ではなかったので、もし母も同時に食べ始めていたら母のほうが食べ終わるのが早く、「あぁ…早く下げたいのに。早く食べ終わってくれないかな。」と思うことがストレスだったかもしれません。

つまりテトリスのように作業を組み立てて、効率性を重視した家事の回し方をするとしたら、母が同時に食べ始めないことは大正解でした。

けれども子どもだった私は「ちょっとぐらいお風呂が遅くなったっていいじゃん…食べ終わってから洗えばいいじゃん…そんなことより、一緒にごはんを食べたいよ。」と寂しい思いをしていました。

効率を重視するならば一緒にごはんを食べないことが正解。だけど私が望んでいたものは効率ではありませんでした。

「子どもをダラダラさせないで、早くごはんを食べさせ、効率的にパパッと家事を片づけて、早い時間に子どもを就寝させる」という完璧な【管理】がゴールならこれが正解だけど、それをやっても誰も喜びません。

おそらく「いいお母さん(主婦)になりたいのにうまくできなくて、それでイライラして子どもや旦那にも悪影響なんです~」っていう悩みを打破するために断捨離などに取り組む人もいると思うんですが、「いいお母さん(主婦)」を目指そうとするゴール設定がそもそも間違いなのだと思います。

例えば私の母は家計を切り詰めるために、子どもたちにお金をかけるために、自分の趣味費を削りまくっていました。

大富豪が通うような入会金100万円、月額30万円のスポーツジムに行かれたらそれは興ざめですが、月に数千円でもできる趣味だってあるじゃないですか。

下手に1円1銭を切り詰めて、ノイローゼになりながら、イライラして子どもに暴力を振るいながら、眉間にしわを寄せて、目じりをつり上げて、無理して切り詰めてもらうよりも、しっかりと息抜きのできる趣味を持って笑顔でいてくれたほうが、私はよっぽど嬉しかったんです。

あとは私の父はお惣菜が嫌いだったんですね。「麻婆豆腐の素」「グラタンの素」「パスタソース」みたいなのはセーフだったんですが、とにかく「作りたてがいい」という価値観なのでお惣菜と冷凍食品が使えませんでした。

亭主関白な九州の家庭に慣れ親しんだ祖父母から父が生まれ、そんな父と結婚してしまったからにはしょうがない部分もあるのかもしれませんが、「○○を使えない」という縛りがある中で母は一生懸命料理をしていたのではないかと思います。

たまに父の夜勤があると母・私・弟の3人で「やったー!今日はテキトーごはんだね♪」と顔を見合わせ、スーパーに行ってお惣菜を選んだり、残り物や冷凍食品を用意して食卓を囲みました。

作りたてには作りたてのおいしさがあるのも理解できます。だけど笑顔で囲める食卓に勝るものはありませんでした。

お母さん(主婦)って、真面目な人が多いのかどんどんどんどん正解を追求していって「栄養バランスの整った食事でなければ」「作りたてでなければ」「私の被服費・趣味費を子どもの学費に回したほうがいい」「〇時までには子どもを寝かせないと」と客観的に測れる指標で頑張ろうとしてしまうけれども、笑顔より大切なものなんてないと私は思いました。

だいぶ前に出会ったご夫婦の話です。奥さんがヒップアップのエステに通い始めたとのことでした。

旦那さんは「俺は尻がどう上がるとか何センチ上がるとか全然わからないし、無駄金だと思わないこともない。だけどそれに行ってアイツが嬉しいって思うのなら、そのためにお金を出してやるのは男の役目かな。」と言っていました。

当時の私は「夫婦」といえば自分の父母しか知らないわけですから、すごく斬新だなって思ったのを覚えています。

その正解は、誰が喜ぶ正解なの?

例えば、FPさんもびっくりするような完璧な家計簿を書けたとしましょう。

家族がイベントを楽しむような感じでワイワイと協力して節約し、楽しんでできた結果がそれだったらいいと思うんです。

だけどだいたいの場合は旦那や子どもが協力してくれなくて、自分だけが頑張って辛くて、決めた目標通りにお金を管理できて「やったー!」って思うはずなのにどこか虚しい。

家族みんなで楽しむ未来のために節約を頑張ろうと思ったはずなのに、逆にギスギスしてしまっているような感じさえする…。

FPさんが褒めてくれたことだけが心の救いだったけど、私は一体何のために頑張ってきたんだろう…。何が正解だったんだろう…。

そんな感じになると思います。

なぜ頑張っても頑張っても幸せになれた感じがしないのかというと、「ゴールが客観的指標になっているから」です。

「客観的」とはつまり「自分ではないどこかの誰かが決めた」ゴールであるということです。

「食事は作りたてがよい」「一日に30品目食べるとよい」「21時までに就寝するとよい」…こういうのって、自分の心の奥底から湧いて出てくると思いますか?

どこかのテレビとか本とかネットの記事で言っているから、その影響を受けているんです。

今は「1日3食」が当たり前ですけど、これはエジソンがトースターを売り出すときに「トースターがたくさん売れてほしい」と思って「僕は朝食にトーストを食べています。(朝食を毎日しっかり食べるとあなたのお子さんも頭が良くなりますよ。)」と言ったためにそこから始まった文化だという説もあるのです。

それまでは1日2食で全然問題なかったんです。文化って結構テキトーじゃありません?(^_^;)

多分厚生労働省の30品目っていうのも、ある年に急にある研究者が「30品目がいいんじゃないか」って言いだしただけなんですよ。(最近30品目から変わったみたいですけどね。)

その前の年まで別に30品目じゃなくても普通に過ごせていたのに、ある年から急に30品目じゃないといけなくなったんです。

そういった研究者、栄養士さん、FPさん…色々な専門家の主張を、人生を豊かにするために取り入れるのは全然いいと思うのですが、どこの誰が言い始めたかもわからないルールに縛られて今の生活が窮屈になっているなんて、ばかばかしくなってきませんか?

私もいつかどこかでテレビやネットから「今の時代は女性の経済的自立が鍵!!」みたいな情報を無意識に取り入れたり、父母の様子を見ていて「私も経済力を身につけないと!それこそが幸せにつながる!」と思いこんでいたのだと思います。

だけど、今の旦那と今の状況で今の家に住んでいて…私が眉間にしわを寄せながら頑張って疲弊して経済力を身につけたところで、私も旦那も全然嬉しくないんです。誰の得にもなっていないんです。

多分FPさんに見てもらったりとか、そういう客観的な評価を受ける場合には「奥様にも収入があると…」なんて言われるんだと思います。

でも「いつかどこかで見てもらうFPさんに褒められるために、夫婦2人がギスギスした不快な生活を続けていくこと」って何の意味があるんでしょう?

2人の人生なのに。

もしかしたら旦那の大きな病気や怪我によって、収入が途絶えて私が死に物狂いで働かなきゃいけない日が来るかもしれない。

だけど人間死ぬ気になりゃ何だってできる。結婚以来ずーっと専業主婦でいた人でも「子どもが高校生になって手が離れたから」と急に働き始める人だっている。

「いつか必要になるかもしれないから。」と執着するのは断捨離的にNG。

それならば「いつかどこかで何かがあるかもしれないから」と今の職場にしがみつくことなく、私は私と旦那のために胸を張って専業主婦を楽しむことが1番なのでしょう。

そうすれば、私のインナーチャイルドもおそらく喜ぶと思うのです。

ふぅ…。退職願、書いたらいいのかなぁ。(^_^;)

みなさんは「主婦」に関する不安や執着などはありますか?

最後まで読んでくださり、ありがとうございました。

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